あったかいせかい
064:今だけは世界があたたかいものだったと思える
葛は目立たぬ黒い外套を羽織ったままそこへ佇んでいた。塀から見える桜は古木でもうすでに花も散って葉桜だ。山査子や金木犀が甘く香る。肥料のやりようで咲かせる時期をずらすことができるというのを耳にした気がした。甘くまとわりつく香りはこれから行う行為への倦みを和らげだ。路地裏であっても小奇麗にしているところは清潔感があるように硝子を煌めかせている。日除けが下りっぱなしでも窓硝子が綺麗ならば住人か世話人がいるだろうと見当もつく。路地裏では誰も何も教えない。迷った際の道案内さえ不親切だ。酒を片手に空いた方の手で適当に指し示す。同じところをぐるぐる回らさせられる経験を葛は何度かした。お高くとまるからだぜ、とうそぶかれて葛は己の身形がそう言う部類であることを意識し始めた。葵など無遠慮に路地裏へ融け込んでどこで見つけるのか菓子やら果実やら女物の髪飾りまで見つけ出す。葛に似合うと思って、と見せた簪の煌めきや鉱石は美しいと思ったが葛は葵に平手打ちを見舞った。簪の美しさとそれを葛に贈る葵の意志とは別のものだというのが葛の見解だった。しばらくは仔犬が叱られたようにしょげていたが、あの簪はどうしたろう、と葛は手持無沙汰なこの時間に栓もなく思いだしていた。
珍しく裏稼業の予定がかみ合ったのだ。二人で組んで済ませる仕事だ。必要があれば血を見ても構わないということは穏やかではない。必要ならば二人がそれぞれに有する特異能力を使用しなければならないかもしれない。葛自身は能力使用を極力控えている。使用制限の問題もあるが、公平性に欠けるような気がするのだ。問い詰めた葵に、仲間の命と天秤に掛けたりはしないと言ったがぎりぎりまで使う心算はない。
ピィーと犬笛のように甲高い口笛が葛の耳にだけ届く。合図だ。葛は外套の襟を立てて顔を隠しながら当然の顔をしてその家屋に入り込んだ。バタンと閉まる背後に人影は少なくとも見受けられなかった。
「つけられた?」
「見たところではない」
「葛はそっち、オレはこっちやるから」
葵の奔放でありながらどこか堅実な性質や意志の強さが凛と太めの眉筋に表れている。ぱっちりとした眦からは化粧筆で刷いたように一本ぴんと長い睫毛が彩る。葵が瞬くたびにその長い睫毛が上下した。暗がりでは判りづらいが葵は肉桂色の髪と双眸をしている。黒く染めないのかと問うたところ、それって公平じゃないだろ、と返されて葛には意味が判らなかった。黒髪の人間があふれかえる場所で隠密行動をとるのに色の抜けた髪や瞳と言うものは目立つ特徴だ。だが葵当人の問題であればと葛も目をつむって来た。
今回の任務は情報の強奪だ。標的が人間でないのはありがたい。人間は常に予測不能の事態を引き起こす。足手まといにもなる。だが二人がかりで取り掛かれというからには血を見ることになりそうだとは想像に難くない。作りつけの棚や引き出しを開けたり引っ張り出したりする。書類や写真、反古紙や屑籠の中まで調べる。強奪と言うからには持ち出せという意味が含まれている。相手の側にその情報が残っていては都合が悪いのだろう。もっとも葵や葛の位置では命令が下りるだけでその意味や前後関係や影響などは伝達されない。言われたことをやればいいとはよく言われる文句だ。
鍵付きの抽斗にぶち当たる。人は物を隠すときに絶対に開けられない場所へ隠したがる傾向がある。目的か、とひとりごちたがその抽斗は家具に造りつけなので抽斗ごと持ち去ることは出来ない。鍵を開けるしか手はないと考え葛は簡素な髪止めを外した。そこにひそませておいた針金を一本抜き、鍵穴へ差し込む。鍵は運よく旧式のタイプだ。作りさえ知っていれば合い鍵の製造も容易なタイプである。案の定葛が熱心に針金を動かすとかちりと開いた。書類と写真が数枚。事前にどんな書類か聞いていたのでざっと目を通す。これが今回の標的と見て間違いなさそうだ。葛は気後れも失く書類と写真を服の隠しへしまった。気配に振り向けば葵が肩をすくめていたところだった。
「こっちは空振りだ。あったか?」
「あった。撤収するぞ」
葛が立ち上がったところでガチン、と撃鉄を起こす音がした。
『誰だ! 何をしている!』
現地の訛りも甚だしい。この家屋の住人だろう。つまりこの強奪した資料の保有者でもある。
葵は黙って両手を上げた。葛もそれに倣う。だが書類や写真は懐から出さない。これのための侵入であり強奪なのだ。銃で脅されて失敗しましたではこちらが粛清の標的になりかねない。葵や葛が所属しいている裏稼業の団体とはそういうところだ。
「まずったなぁ。帰り速すぎだろ。情報ではもう少し間がある筈だったんだけどな」
葵がため息をつく。それでいて死地に追いやられそうになっている悲壮感は微塵もない。そこが葵の強さだと葛は思う。葵はけして諦めない。死にたがらない。葛に感じ取れるのは葵がその特異能力を使うタイミングを測っているところだ。使用制限があるのは葵も同じこと。葛がその回数に制限があるのに対して葵の制限は初動から一定時間と言う時間の制限だ。一度使い始めたら限界を迎えるか再初動が可能になるまでか待たなくてはならない。使いどころが難しい。怒鳴りこんだ男の目が葛の傍の抽斗へ向く。情報の強奪はすぐさま知れた。
『奪ったものを返せ! 早く返せ!』
好機であるのは男の照準が手前の葵に据えられていることか。少し距離があるが葛の身体能力は戦闘を主とする軍属仕込みであるから並みよりは上だ。
葛が床を蹴って走りだす。同時に葵の瞳孔が集束した。虹彩が燐光を放つように収縮する。同時にぱぁんと男の手から拳銃が弾き飛ばされた。驚いた男が回復する前に葛がふところへ飛び込み、こめかみを狙って一撃を繰りだす。確かな手応えと同時に男の体が砂袋のようにずるずるとくずおれる。頭部への衝撃であるからしばらくは自由には動けないはずだ。だめ押しのように葵の能力がもう一度発動して銃と男を反対方向へ弾き飛ばす。それから二人は夜闇に紛れて路地裏へと還って行った。
走ってめちゃくちゃな道を通ったので二人ともが一緒に帰路を考えている。路地裏の居住領域や道筋など日替わりで変わる。蔦が這うように広がるかと思えばその蔦はすぐに枯れて別の植物に呑まれてしまう。
「葛ちゃん、どうしよっか。出来るなら早めに帰った方がいいよね」
葛はそうだなと返事をしながら襟を開けて風を手で贈る葵を眺めていた。特異能力は特別に熱量を消費する。体の熱も上がるらしく、雨期でありながら葵はしきりに熱がって手を団扇代わりに煽いでいる。二人は早めに写真館と言う仮の塒へ逃げ込んだ。尾行がないかしっかりと確かめ施錠も怠りない。葛は奪った情報を番号施錠タイプの鍵の抽斗へ突っ込んだ。この鍵ならば針金で開けられることもなかろうという警戒だ。
「葛ちゃんおなかすいたー何か夜食作ろうよー」
間の抜けた葵の声に外套を脱いでから葛が階上から降りてくる。葵は客との応対に使う長椅子の上にひっくり返っていた。そこは日ごろから葵の定位置だ。客が来れば退くので構わぬかと思って葛も注意しなくなった。葵の伸びやかで無垢な四肢が放り出されて垂れさがっている。真面目な顔をすれば精悍で男前なのに葵はそれを知ってか知らずか常に笑顔か腑抜けたように気の抜けた顔しかしない。もっともその弛みが人懐こい葵の本質らしくもあると思う。凛と隙のない葛に気軽に話しかけてくる輩など葵のほかは店屋物を頼む店の看板娘くらいだ。格式が必要な依頼が来たときだけは葛が接客応対から撮影などを請け負う。それ以外は葵任せだ。そのぶん葛は裏仕事に徹して帳簿つけや書類の整理などを請け負っている。机に向かう仕事は葛の方が向いている。葵いわく、字も綺麗だし内容も正確、オレがやるより早く済む、である。一度やらせたがそれが葵の謙遜や誇張ではないことが身に染みた。だから帳面には葛の流麗な筆ばかりが踊っている。
「あおい」
葛の手が葵の細い頤を固定する。そのまま口付けた。仰向けに寝転がっていた葵はその口付けを真正面から喰らった。慌てふためいた爪先が葛の頬にがりっと紅い線を引く。くちゅ、と濡れた音をさせて葛の朱唇は何度も葵の唇を食んだ。紅く熟れたように艶めいた葛の唇が葵のそこに吸いついていると思うだけで葵の熱が上がっていく。
「葵、お前は案外ふくよかな唇をしている」
笑っているか拗ねているかの唇しか見ていない葛の感想である。笑っていると横へ広がるので葵の唇は薄いのかと思っていたのだ。拗ねたときの山形の唇は形よく、葵が生活苦もなく暮らしてこれたことを示している。
「ばッ…それ、それ言うことかよ!」
篝火のようにちろりと燃える葛の紅い舌の濡れ光る煌めきにどぎまぎした様子で葵が叫ぶ。葛はぺろりと唇を舐める。小奇麗に整った顔立ちの葛は白皙の美貌だ。通った鼻梁に厚めの唇は熟れたように紅い。化粧でもしたかのように睫毛は密に目淵を彩る。眉は目交いの延長線上から目の真ん中あたりまでで切れている。その半端さが逆に葛を出来の好い日本人形のような美しさを醸し出している。
葵は葛とは逆に活動的な性質が好く現われている。適度に焼けた皮膚はそれでも滑らかだ。頑固な性質を示すように太い眉筋や整った鼻や目の位置。一房ぴんと長い睫毛が特徴的な双眸は葵が案外聡明な性質であることを示すように賢しげに煌めいている。常に笑っているとか感情を前面に押し出すので唇がふわりとやわいことを知るものは案外少ない。真面目な顔をすれば精悍ななりに整いそれなりの迫力もある。
「欲情した」
葛は率直だ。装飾やごまかしを不得手とする性質であることは当人が一番よく知っている。下手な鉄砲、とは言わないが数撃っても当たらぬ気がするので葛はいつも本題をそのまま相手にぶっつける。その方が余程相手の正直な反応が得られる。
葵は愛しむような苦しげな微笑を見せた跡で腹が減ったと騒ぎだした。
「ごはんたべたいー」
「我慢しろ。俺はお前が食べたい」
「…葛ちゃん、そう言う下品な冗談どこで覚えてくるのさ」
「お前からだが」
きっぱりと言われて葵がぐゥッと黙った。
「それにあながち冗談でもないんだが?」
葵の体を引っ張って床の上へ叩きつける。背中を打ちつけて葵がかはっと喘いだ。その間にシャツの釦を手際よく外していく。汗がにじんだ葵の肌は健康的な色艶と、にじんだ汗による雲母引きで一層艶めかしく見えた。真っ平らな胸からなだらかに続く腹部とぽつりと形よく空いた臍。腰骨の尖りが少しのぞいていた。
「もっとしたくなった?」
ぜいぜいと言いながら葵がにやりと蓮っ葉に笑う。
「お前を抱いている時だけは、世界はまだいいものだと思えるからお前を抱くのは好きだよ」
葛にとっての世界は明確な上下関係の軍属か絶対的支配者の祖母との同居と言った、明確にそれぞれの位置の高低が決まっていた。そこで葛は常に低位に属し言われることをこなすしかなく、またそれしか求められなかった。だが葵を抱いている間は愉しかった。葛の指先や唇、舌の動きで葵の体は面白いように跳ね、熱を上げ、痙攣したように快感に震えた。葵の体も葛を受け入れてくれた。機能的に使用できる部位が限られているがそれでも葵の側からの拒絶を葛は感じなかった。葵は葛が葵を抱くことを承諾してくれた。初めての優位に葛は酔ったように葵を何度も抱いた。もしそれが葵の策略であっても、葛の行動による葵の反応と言うそれはひどく楽しいものであった。手を這わせればにじんだ汗でひたりと密着する。葵は笑って自分からベルトを弛める。
板張りの上で二人は獣のように息さえつかずに抱擁と交歓を感じた。
「葛ちゃんって、意外と情熱的だよねー」
ごろんと体を反転させて俯せた姿勢で葵がうそぶく。脚の間の濡れ具合や下半身への影響など微塵も感じさせない。葛はすぐに身支度を整える。何事も手早く済ませる癖がついている。それでも葵との交歓には時間を割く。念入りで執拗なそれを、葵は日頃から抑制されている葛の開放ととらえている節がある。それでも構わない。葛は葵の胎内や葵の体に触れている時ばかりはこの世界に生まれてきたことを感謝出来た。温かい、世界だった。
「さっさと服を着ろ。その前に風呂場へ行け。湯の沸かし方は判るだろう」
「あのさ、一応褒めてるンだから最後まで話聞こうよ」
「お前の話に落ちがあるとは初めて聞くが」
葵は元来話好きだ。待ち合わせて手持無沙汰な時間でさえ見知らぬ輩との談笑に使う。待ち合わせ場所に葛がつくと葵が知らぬ誰かと楽しげに談笑しているのは見慣れた風景だ。しかもそのまま、じゃあねと別れて葛に合流する。相手側にも名残惜しげな気配はない。その時々の暇つぶしの方法を心得ている証だ。
「葛ちゃん、オレの裸って見苦しい? 嫌い?」
「まだ足りないのか。もっと俺にお前を抱けと?」
「はい、お風呂行きまーす!」
葵はすっくと立ち上がると散らばった服をかき集めて浴場へかけていった。同性同士の交わりとして後始末は肝要だ。本来成功に使わぬ部位を使用するため、受け身の側の負担は想像以上だ。葵と葛はどちらがどちらと決めているわけではないから、葛も受け身であった時の負担は心得ている。それでも葛は時折、葵を抱きたくなる。それは決まって誰かに危害を加えた後であったりぬくもりが妙に恋しいような夜であったりした。商売女を相手にしてもいいが寝物語に機密を漏らす恐れがある以上、組織からきつく戒められている。その結果として同居人であり同性でもある葵と葛はお互いに白羽の矢を立てたのだ。性欲の手当ての相手として。
「………あおい」
身形を整え終えてから葛は情交の跡を消す。客の来訪がある場所で事に及んだのは多少まずかった。絨毯のしみやしわ、家具の位置などを念入りに拭きとり拭い、元の位置へ戻す。そう言った手間が必要なのは自室で抱いた時も同じで、それを考え含めても葛は葵を抱くのを止めろと命令が下っても止めないだろうなと思った。
「おまえは、やさしい…――」
葵は拒否しない。鎧戸を下ろしたように拒絶を繰り返す葛から見ればそれは驚嘆するほどの懐の深さだった。見知らぬ輩と話をする、物をもらう、買い物をする。どれも葛にはそれなりの覚悟と下拵えが必要で、葵は場当たり的にそれをこなす。しかも葵はそれで失敗することは稀なのだ。それはきっと葵が優しいからなのだ。あたたかいからなのだ。人のぬくもりを忘れがちな裏稼業の傍らで、葛が冷血漢でいられるのは葵と言う温かな場所があるからなのだ。葛は葵に依存している。自覚もある。それでも葛は葵の欠損を考えない。きっとこれが、好きって、言うこと。誰も教えてはくれなかった。だがそうではないかと葛の奥から声がする。オマエハアオイガスキナンダヨ。だから素っ気なくされれば気にもなるし体調でも崩せば面倒をみるし、そう言ったあらゆることを負担だとは思わない。同時にそれは葵が葛に対しての態度でも同じことが言えるのだ。
お互いにお互いが好きなのだろうか、と思う。それでもこの慕情は体の関係だけにとどめておかねばならない。二人がこうして同居しているのは双方の力など及ばない上層部の判断によるものなのだ。いついかなる状況でそれが解消されるかさえ判らない。つまり明日にでも葵はこの写真館から出て行ってしまうかもしれないし、葛が荷物をまとめることにもなりかねないのだ。だから体だけの間柄であると堪えねばならないのだ。
「…好き、か」
葛は葵が頻繁に寝そべる長椅子へボス、と頬を寄せた。クッション材が心地よい。猫みたいだな、と笑う。葵はまるで猫だ。猫は居心地の良い場所を見つける天才なのだという。葛は乱れたままの黒髪を直そうともしない。はらはらと黒髪が額を隠す。ぼんやりしているとじわじわと眼に涙が浮かんでくる。
こんなに好きなのに
いつ別れるかという選択さえ俺達は
できないのだ
「あおい」
お前がいる世界は温かくて心地よくて、今だけは、そう思うよ――
葛はひっそりと声さえ立てず息さえも殺して泣いた。
《了》